【高野山真言宗成田山真如院(羽幌本院・札幌分院)】札幌・羽幌での十三参り・水子供養など

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成田山のお不動様

〈更新日: 平成29年1月 〉 ※写真が掲載されている場合は、クリックすると拡大表示されます。

平成29年明けましておめでとうございます。
不穏な流れが世界中を駆け巡る中に新年が明けました。
期待の年というより何かしら先の見えない不安や心配が絶えない年を迎えたのは私だけではないと思います。
こんな世情に負けず、少なくとも私が毎日祈ることが出来る周辺だけでも良い年が迎えられるようお不動様に祈願して参ります。

今年は、どうゆう訳か昨年末から年明け早々にかけいろいろな方のお礼参りをいただいております。
それまで医者から見放され、世の中からも馬鹿にされ続けていた若いご夫婦が長年私のお寺に願を掛けに来られ、私からアドバイスを受け続けられておりました。
そのご夫婦の願いがかなって健康が回復し、社会の中で一応世間並みに生活が出来る様になったと喜んでお礼参りに来られました。

また、ある大きな組織の中でイジメられ、職場での立場が無くなり、さらには過去に受けた職場での事故が原因で、後遺症が残ったにも関わらず職場から無視され冷遇を強いられていた男性がお礼参りに来られました。
その理由は、職場で受けて発症していた後遺症が認定災害として認定され、ようやく苦しみを職場の上司に理解してもらい、災害補償まで出るようにになったと報告に見えられたのでした。
家族全員でお参りに来られ、皆さん明るい笑顔で喜んでいる姿を見た時、お不動様の力は偉大だななぁ~とつくづく感じされられました。

また、お正月2日 には、大学生時代に自分が何者なのかとという深い悩みの下お寺を訪れ、自分はどう対処して社会を乗り切れば良いのか、自分にとって何処が一番相応しい立ち位置なのか、社会の中でどのようにして生きて行くのが相応しいのかと、学生時代の4年間間断なく私を尋ね、カウンセリングやアドバイスを受けていた教え子が尋ねて来られた。
その子が私のアドバイスに基いて外国留学の経験を経て大学を半年遅れで卒業し、立派に成人になって外資系企業に勤めて1年経過したこのお正月、ご両親と一緒にお不動様にお礼参りに来られたのである。
本人、ご両親共この上ない喜びようで、一回り大きく成長した教え子の晴れの姿を私に見せてくれました。
私としてもお寺としてもこのような御蔭を頂いた報告は、何を措いても嬉しいもので、ここのお寺、このお不動様のお力を示す何ものでもないとして喜んでいる所でおります。

昨日、NHKテレビで「ぶらタモリと鶴瓶の家族に乾杯」が千葉県成田山の収録に合わせて放映された。
その中で成田山新勝寺を紹介するにあたり、平 将門平定と成田山とのつながりを示すエピソードを紹介していた。
このエピソードとは、良く語られているものだが簡単に紹介しておく。

平安朝の藤原朝時代末期に貴族の堕落を憂いて立ち上がった関東の武将平 将門は関東一円で一揆をおこした。
これに驚いた藤原朝廷は、京都神護寺住職寛朝に依頼して平 将門を鎮めてくれるようお願いした。
寛朝は、京都神護寺本尊であるお不動様を担いで大阪難波から千葉県木更津の港まで運び、それから北東4キロほどにある公津ケ原まで運び、そこに小さいお堂を建てて、三角の護摩壇を築き、鉄粉を吹き込んで焚く武闘の護摩を3日3晩焚き続けた。
そうしたら、不思議にも3日目の夜護摩の火の中に首から血を流して苦しんでいる将門の姿が浮かび上がった。
これを見た寛朝は、「将門は、自害した」と悟ったと言う。
この後、弟子を残したまま京都に帰り朝廷にこのことを報告した。
朝廷は大喜びで寛朝に労をねぎらい、後日褒美を与えた。
その褒美とは、現在の成田市の所に本堂を立てくれたことだ。
このお寺こそが成田山新勝寺である。
昨日のテレビで紹介していた一番最初の本堂が多分そうであろうと思うのだが、その本堂は、随分小さなお堂であることが分かった。

さらに、この成田山の本堂所謂お寺を日本全国に知れ渡るほど有名にさせてくれた人がいる。
市川団十郎である。現在、市川海老蔵さんのご先祖に当たる人だ。
市川家本名(本名は、堀越)は、曾祖父小十郎氏は、元々武田軍の武将であったとのことだが、武田が滅んでからは武将を辞め、千葉県に農家として仕事を見つけていた。
また、合わせて当時の住まいであった市川村から江戸や多方面に向けて江戸川に船を通して人を渡す渡し守をしていたという。
実は、市川という名は、市川村の渡し守と言う仕事のことから市川という苗字を貰ったとのことである。
小十郎の子重蔵は、農家をするのが嫌で江戸に出て芝居小屋に入り手伝いをしていた。
その内重蔵に子供が出来て生まれたのが初代市川団十郎ということである。
団十郎は、芝居小屋でメキメキ頭角を現し様々な出し物に出ている内に江戸歌舞伎の人気役者となった。
団十郎が芝居小屋一門を見る様に成った時、自分に後継者が必要であることを感じていたが、なかなか子供出来ずに悩んでいた。
その時、千葉県成田山新勝寺のお不動様に願を賭けて子供が授かるよう願った所見事に男の子に恵まれた。
そして、そのお不動様の恵みに応える為に団十郎は、自分の子供が14歳になった時成田山のお不動様へのお礼として団十郎は、団十郎が胎蔵界のお不動様、息子は金剛界のお不動様に扮して歌舞伎を演じお不動様に恩返しをした。
所がこの歌舞伎公演が大当たりになり、当時の江戸中の庶民が団十郎の大ファンとなり大人気を博した。
実は、団十郎のこの歌舞伎公演の後から千葉県成田山新勝寺のお不動様が江戸市民から急速に信仰を集めるようになったとのことである。
そして、成田詣でか伊勢詣でとまで言われるようになったのである。

昨日のテレビでは、この逸話も紹介されていたが、現在の成田山は、初詣に300万人以上もの人が参拝しているが、なぜそこまで参拝者が増えたのか、その経緯についても紹介されていた。
それは、成田山新勝寺が明治40年に参拝客を増やすために東京から成田まで私鉄線を敷いたことよるとのことである。このことにより急速に参拝客が増えはじめ今日に至っているとの話があった。
また、その後この私鉄を現在の京成電鉄が買い取り新たな私鉄線として電車を走らせた事が今日の隆盛に繋がっているとの話があった。
また、京成とは、東京から成田山という名前の1文字を取ってつけたとの話もされていた。

成田山とお不動様、そして千葉県成田山の隆盛の歴史に新たな発見があり、この先行きの見えない世の中に何か先に明るい何かを見させてくれるものを示してくれてた。そして、ことが今年の新年の喜びに勝るものは無いものを与えてくれた気がする。
当山も新勝寺のお不動様の流れを汲むお不動様を祭っているだけに、早く札幌市内の中で「北の成田山、北のお不動様」として大人気を博してくれる日を待ち望んでいる。


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