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「はぼろ」の名前は、「ハポロペツ」というアイヌ語が由来。
この言葉は、「流出広大な川」の意味をもつ。
17世紀前半から、松前藩下この流域に砂金採取の人が往来したのが開拓の始まりのようだ。
嘉永元年(1848)ペリー来航の5年前、アメリカ人ラナルド・マクドナルドが捕鯨船プリマス号から、一人自分の意志で下船しボートで焼尻島に漂着した。無人島と思い利尻島に向かい上陸、生活する傍ら島民に英語を教えた。
その後、船内反乱を起こし捕虜となっていたアメリカ捕鯨船員15名と松前で出会い、一緒に長崎へ移送された。
焼尻島に漂着してから、長崎に送られたまでの期間は3ヶ月と言われている。
長崎では、森山栄之助ら14人に英語を教えている。
森山栄之助は、ペリー来航時に主席通訳官として交渉に携わった人物。マクドナルドは、日本最初の英語教師だったといえる。この頃の日本近海は、捕鯨で有名でありメルビルの小説「白鯨」の舞台もここだと言われている。
天明6年(1786)六代栖原角兵衛に天売、焼尻漁場請負に命ぜられるとの記述がありアワビ・ニシン・ナマコ等の産物は、栖原屋のみが交易した。
安政年間に、松浦武四郎が留萌沿岸の測量に入ったころから江戸幕府の支配が明確になっていったようである。
明治2年(1869)「開拓使」が置かれ「えぞ」が「北海道」と命名。
この地は、天塩国苫前郡として水戸藩に支配。
水戸藩支配が終了後、明治政府下で苫前郡を苫前村・白志泊(しろしとまり)村・力昼(りきびる)村・焼尻村・天売村に区画。
明治12年(1879)郡区町村制が定められ、留萌に郡役所・焼尻村・天売村の戸長役場を焼尻村に設置。明治13年(1880)苫前村・白志泊村・力昼村の戸長役場を苫前に設置。明治27年(1894)羽幌村は、苫前村の分村として成立。
この間、焼尻島・天売島は、青森・秋田・石川県からニシン漁の出稼ぎヤン衆が集まった。
またこの頃から羽幌川岸にも、ニシン漁や捕鯨業のために移住が始まる。
明治29年(1896)羽幌、築別両原野が解放され福井・富山県から約400戸集団入植し地域集落を形成し始めた。明治30年(1897)羽幌村戸長役場として独立。
この地は、明治・大正・昭和20年前半まで主にニシン漁が豊富で、漁業や米農業など自然の恵みにめぐまれた豊かな大地であった。
同時に、昭和16年羽幌炭鉱が開坑され、資源が豊かで本当に恵まれた土地であったのは間違いない。
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炭鉱は、昭和45年の閉山まで約30年間地域経済を潤し、政治・経済・行政の面で留萌管内中心都市として発展した。
お陰で人口が3万人を越えた時もあり、経済・文化・教育・スポーツ等にも恵まれ、優秀な人材も多く排出して地域のみならず全国に名をとどろかせた。 |
しかし、時代の波・過疎化の波・エネルギー革命の波・国際化の波・最近ではIT化の波が襲い掛かり、昭和20年代後半ニシンが全く捕れなくなり、昭和45年羽幌炭鉱の閉山、62年国鉄羽幌線の廃止、平成7年NTTの撤退、11年測候所の撤退、13年森林管理事務所(営林署)の撤退など、これまで町の中心的な事業主体が廃止、撤退して地方都市としての存在価値は急激に失われた。
中心的な事業主体が撤退した後、事業主体は町行政に移行しサンセット・ビーチ整備、サンセット・ホテル営業、羽幌道立病院整備や各福祉施設整備への係わり、スキー場、総合体育館整備など国が主張した国土の均衡ある発展の下に、地域環境の整備に先進的に取り組んだ。
今度は、行政改革・構造改革の波が襲いかかっている。
その為、町村合併を促がされ行政の合理化・効率化に加え、町村の縮小は避けられなくなった。
今後の行方は、全く予断は許されないがロシア沿海州・サハリン・韓国・北朝鮮・中国との沿岸貿易の可能性も残しており、今後の国の歩み方次第では大きく展開することも考えられる。
羽幌町は、永遠に残り未来に向かって再び新たな歩みを始めなければならない時を迎えている。
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