【高野山真言宗成田山真如院(羽幌本院・札幌分院)】札幌・羽幌での十三参り・水子供養など

札幌・羽幌での十三参り・水子供養【高野山真言宗成田山真如院(羽幌本院・札幌分院)】公式サイト

  • トップページ
  • ニュース
  • 真言宗と弘法大師空海について
  • お言葉
  • 真如院の歴史
  • 真如院について
  • 住職について
  • 行事
  • お経
  • 節分厄払い法要
  • 朝寺の会
  • 俳句会
  • 永代供養
  • お問い合わせ
  • お問い合わせ
  • 個人情報保護方針
永代供養
心の療養院でのカウンセリング
年忌表・四十九日表
住職行事予定表
お経
成田山真如院公式YouTubeチャンネル
虚空蔵菩薩求聞持行回想及び社会で実践した臨床事例記録~求聞持行回想、瞑想分析、五つの臨床事例、不動護摩修行回想他の記録|著者 高山 誓英|定価2,000円(税別)|成田山真如院住職「高山誓英」初となる著書「虚空蔵菩薩求聞持行回想及び社会で実践した臨床事例記録」が出版されました。僧侶としての修行とスピリチュアケア学、臨床瞑想法理論と実践、様々な社会的な臨床事例から気付いた回想記録を一冊の本にまとめました。

お言葉|【高野山真言宗成田山真如院(羽幌本院・札幌分院)】札幌・羽幌での十三参り・水子供養などお言葉|【高野山真言宗成田山真如院(羽幌本院・札幌分院)】札幌・羽幌での十三参り・水子供養など

「成田山」

〈更新日: 2003年01月30日 〉 ※写真が掲載されている場合は、クリックすると拡大表示されます。

 観音様と言えば浅草を思い起こすが、お不動様と言えば、すぐ「成田山」を連想する。

それほど「成田山」と「お不動様」とは縁が深い。

 平安時代「薬子の乱」を平定した嵯峨天皇は、日本国の将来を按じて「国家永遠の安泰、国民長久の幸福をどうしたらかなえられるか」と弘法大師空海に御下問された。

大師は、熟慮した後「それでは大聖不動明王をお祭りあそばされ、その加持力によられることが何よりでございます」と自分の意を天皇に奏上された。

何故大師は、多くの仏様の中から不動明王を選ばれ、その意を奏上されたかと言うと、

「不動明王は、慈悲の両相をあわらし、順逆の二機に応ず」といって、

「善良の者は、どこまでもこれを慈しんで至善に導き、悪心の者は、どこまでもこれを戒めて改心させる。しかし、悪逆難化の者は、これを打滅して天下の安泰を図るという二つの面を備えている仏様」

とされており、嵯峨天皇への使命に的確にお応えできると考えたからであった。

天皇は、大師の応えに対し大層感動され、「早速、不動明王の尊像を整え、国家永遠の安泰、国民長久の為に護摩法を奉修せよ」とお沙汰があった。

弘法大師空海は、自ら一刀三礼の至誠を込め刻んだ不動明王像を、現京都高雄の神護寺に安置した。

そしてその後、千葉成田山新勝寺の御本尊として祭られたのである。

 そこで何故、神護寺護摩堂にあった不動明王像が、千葉成田山新勝寺に祭られるようになったのかを説明する。

天慶2年(939年、弘法大師没後104年、朱雀天皇)当時、東国で平 将門が国家転覆の謀反を起こしたとき、

勅命を受けた京都仁和寺寛朝(かんちょう)僧正が、この不動明王尊像を携えて、

灘の港を出発、上総(かみふさ)の尾垂ケ浜という所に到着、当時将門の根拠地であった猿島郡岩井から五里あまりの公津ケ原に小さなお堂を建立して尊像を安置して、

三七(二十一)日間、賊徒調伏(ぞくとちょうぶく)の護摩法を修した。

すると不思議にも三七日の満願日(最終日)に、平 貞盛、藤原秀郷らが将門の謀反を平定したのである。

その時、調伏護摩の煙の中に、将門の血にまみれた姿が現れ、謀反が終結したことを示したといわれる。

そして、護摩法に謀反平定、戦闘勝利を祈願していた衆徒たちは、驚きおののいたと言い伝えられている。

これこそ不動明王の威神力と寛朝僧正の法力とが加持感応して一つになった力と考えられる。

かくして謀反の平定された東国は、天皇の下に治まることになった。

寛朝僧正は、この不動明王を蔵をこしらえて納めようとしたが、尊像が極力重くなっている不思議を知り、どうしても納めることができなかったと言う。

寛朝僧正は、弟子2人をそこに残して、ねんごろに供養せしめ、自分は事の一部始終を伝えるため、単身京都に戻り天皇に奏上された。

天皇は、叡感 (えいかん=天子が感服すること) され、国司に命じて寺院を建立させた。

そのお寺が、現在の成田山新勝寺と言われる。

今日では、「成田山」といえば、「千葉の成田山新勝寺」というのが一般的だ。

そして「成田のお不動さん」と言えば、ご祈祷するお寺、祈願を聞き届けてくれるお寺とされ、
「川崎の弘法大師」、「東寺の弘法さん」と並んで真言宗を代表する庶民のお寺となっている。

わがお寺「成田山真如院」もご本尊は、「お不動様」だ。

  ここのお不動様は、平安末期に行基菩薩が彫り、高野山に安置されていたのを、
明治33年、本山から北海道開教のために派遣された、小瀬川という僧侶により、船を乗り継いで遠路この地へお連れいただいたと言い伝えられている。

やはり当山でも、お不動様をお祭りするのに、護摩法を修することが本義になっている。

そのためか、当山でも千葉の成田山新勝寺と同じく、それこそ数え切れないほどの霊験を世に示し、明治から現代にいたるまで多くの奇跡を示している。

ここのお不動様の霊験を少し述べてみる。

 明治の昔、ここのお不動様の所には、ヤン衆と呼ばれるニシン漁師や砂金を目当てに流れてやって来た工夫を相手にしていた、お女郎さん達が密かに訪れ、自分の身の安全と健康を祈願していたと聞く。

  明治から大正、昭和初期にかけ、冬山の木材伐採に出かけた人夫さん達が、事故、ケガのないようにと祈願し、伐採中に倒れてきた木にぶつかったのに奇跡的にも何もなく終わったと報告に来たこと。

 戦時中、敵の弾をよけ、命を落とさずに帰還できるようにと、ここのお不動様にお願いして、身代わりお守りを身に付け戦地に赴いた。

その願いが通じたのか「担いでいた荷物の中に入れておいた、お不動様の身代わりお守りに、弾が当たり命の身代わりに成ってくれた」と帰還兵から報告があったこと。

  先代清法和尚が護摩法を修し、山で木材の下敷きになって頭を打ち、意識不明になった人が、病院に担ぎ込まれたとき、
医者が見落とした、耳下の頭蓋骨骨折の箇所を指摘し、医者が驚きながら、その報告どおり再度手術した所、一命を取り留めたこと。

  狐が取り付いたと称して5~6人ほどの人に抱きかかえられてお寺に来て、歩くことも話す事も出来なかった若者が、
現誓英住職の祈祷により、見事にその場で回復し、スックとその場で立ち直り、スタスタと歩いて帰った事、
またこのことを実際に見ていた多くの人たちが目を丸くしてビックリしていたこと。

  海に落ち行方不明になった人が何日も上がらず、家族がこのお不動様に祈願したところ、示された日、場所にすぐ上がったこと。
そしてその後当山でねんごろに供養し、その家族は、それ以来当山の檀家になったこと。

  胃、すい臓、腎臓等などのガンや重大疾病箇所などを事前に発見し、一命を取り留めることが出来たこと。

  交通事故の予測をし事前に事故の予防をし、大したことなしに終えたこと。

  失踪者を呼び戻し、また元の生活ができるようになったこと。

などなど、それこそ数え切れないほど多くの奇跡を当山のお不動様は示してくれている。

どうして、そんな事が生まれるのか、誇張や特別な強調する理屈を探す言葉は見当たらないが、とにかく不可思議な奇跡を示してくれる仏様である。

わがお寺「成田山真如院」は、「千葉の成田山新勝寺」のような全国レベルまでいかないまでも、少なくとも北海道を代表する有数なお不動様のお寺であることだけは確かなようだ。

  さて、そんなお不動様について少し簡単に説明してみたい。

お不動様は、右手に利剣、左手に羂索を持ち、頭髪の一部は左の肩に垂れ、火焔を背にして大盤石の上に立つ姿をしている。

ただ、当山のお不動様は、「座」している。

「座像のお不動様」と「立像のお不動様」の違いは、歴史的に古い姿が「座像」であり、新しい姿が「立像」といえる。

では何故時代の古いのが「座像」かというと、古い時代(奈良~平安)では、「仏様は、悟りを内証(ないしょう)に持つとされ」、
所謂、悪者を退治して人を救おう、慈悲を示そうと心の中に秘めておき、近くに寄って来るのを待って加持力を示す姿を示すのが一般的だったからである。

それに対して「立像」は、悪者を退治して人を救おう、慈悲を示そうとして積極的に世の中、人の中に進み歩み出て行く姿を示すようになったことをいっているのである。

だから新しい時代(鎌倉~江戸)に製作されているものには、「立像」が多いとされる。

阿弥陀如来像も同様で、古い時代のはほとんどが「座像」であり、近代になるほど「立像」となっている。

そのため、密教系の阿弥陀仏は、「座像」が多く、浄土系主に浄土真宗系の阿弥陀如来像は、全てと言って良いほど「立像」になっている。

 お不動様の正式名称は、「大聖不動明王」という。

自ら奴僕(ぬぼく=奴隷)と忿怒(ふんど=怒り)の姿を示し、右手の剣は、悪者を退治する力、左手の羂索は、弱者を救い上げる慈悲の姿を示している。

また、お不動様は、インドのカーリー神が前身と言われる。

  カーリー神は、その前身が、カースト社会に踏みつけられ、排除され続けてきた奴隷社会に生きる女性で、その七代後に生まれ変わり、その生き様、姿が認められて人から神へと変身した姿を示しているとされる。

その為、お不動様の前身は、女神とされる。

お不動様は、インドヒンドゥー教の一員としても所属しているが、インド、中国、日本へと渡ってくるにつれ、その威神力を世の中に示すようになったと言える。

その威神力を最も世の中に示しせしめた人が弘法大師空海である。

歴史的な流れを見詰めてみると、弘法大師の偉大さが如実に判るものだ。

そしてお不動様は、悪難を退治し、衆生を常に救済するためにいつも立ち上がる姿をしている。

このため古来から社会的弱者、弱者たる人間を率先して救済する仏様とされているからこそ日本社会の中に受け入れられ、全国に人気のある仏様として位置付けされているものと考えられる。

「成田山」は、衆生救済の仏様「お不動様」を祭るお寺であることが、これまでのお話でお分かりいただけたもの思う。

(成田山新勝寺の歴史記述は、故坂田徹全僧正の記述本を参考に書いた)

お言葉トップに戻る
Copyright (C) 2011 高野山真言宗成田山真如院