【高野山真言宗成田山真如院(羽幌本院・札幌分院)】札幌・羽幌での十三参り・水子供養など

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「三句の法門」

〈更新日: 2007年07月14日 〉 ※写真が掲載されている場合は、クリックすると拡大表示されます。

私達の一生は、「生きること」、「老いること」、「病気をすること」、「死すること」に逃れられない宿命を抱えている。

そして、これらの「苦しみ」、「つらさ」から逃れようと毎日もがいている。

ところが、苦しみから逃れて楽になろうとするつもりが、自分のみに都合の良い結末を求める結果、様々な短絡した凶悪事件につながってしまっているのが現代社会の実態のように見える。

大昔から親が実のわが子を殺したり、子供が実の親を殺したりすることなどは、王様の跡目争いや、物語のなかでしか聞いたことはなく、一般社会の中には到底ありえる話ではない。

まして、親を殺して首をちょん切って投げ捨てる、子供が子供を殺して首をちょん切るなど、これらゾットする事件の背景や現代社会の裏側に潜む心の闇、凶悪性を伴った閉塞した心の世界をそう簡単に理解出来るものではない。

ハンバーグと称して牛肉のほかに豚の肉のみならず、羊や鴨肉、さらには紙まで溶かして混ぜ込み、混ぜてしまえば分からないだろうと詐欺そのものを演出する者もいる。

全く何が人間性で、何が社会のルールで、何が信頼できるものなのかさっぱり分からない。

これらの犯罪の背景には、従来日本人や東洋人が持ち続けていたていた「他人に振り向けることが出来る心、所謂、自利利他の精神」の価値観を失ってしまったおぞましい人間の闇の心を見る。

また、自分の価値観を現実社会に生かせない若者も目にする。
「引きこもり」、「ニート」に代表される世界だ。

加えてネット社会の急拡大に合わせて広がる、バーチャル世界、フィクション世界の中に居る主人公、可愛い子ちゃんキャラクターへの同質化、さらに恋愛感情をも持つ若者達、ここではバーチャルが実社会であり、本来のこの世の実社会での同化や人間関係を拒否する。
「おたく化」現象である。

どうも高度化した合理的で簡略的でコンビニ化した現代社会に居住する人間は、思考力、思索力、向上力、共同作業力、許容態度、慈悲力など人間が本来的に持ち合わせている他人と関わる心の能力、スピリチュアルが全くと言っていいほど欠落しているのが分かる。

ここには、過去の日本人が延々と積み重ね、作り上げてきた仏教的寛容精神を失って心が病んでいる姿が見える。

かつて戦後、日本の所得倍増論を提唱した経済学者である下村 治氏は、昭和40年代中ごろ、最早所得倍増論は限界に達したとして、日本社会は、心の通った人の社会、人情社会が中心にあった「江戸文化の社会」に回帰すべきだと主張した。

しかし、国は、その論調を顧みずに赤字国債をどんどんと発行し続けて現在までに達し、国と地方とを合わせて千兆円ほどの膨大な借金の残してしまった。

その結果、借金苦により日本社会全体が苦しむ生活を目の当たりにしている。人間がギスギスし、他人に恵む心や思いやる心などは全く消えうせている。

最近は、これが反面教師となっているのか、テレビ番組には、藤沢周平さんが描く「江戸の人情風情」を放送する機会が多くみられる。

先日、帯広市高野寺で灌頂を行ったチベットの高僧リンポチェも日本の社会の実態を評して「少し昔までは、こうではなかった。何とかしなければならない」と深刻に嘆いていた。

さて、こんなに精神文化が荒廃した日本社会をどのように立て直すのかとの問いが、今真言宗僧侶に熱い期待とともに向けられている。

その原点なるものが、弘法大師空海が中国から請来した「大日経」であり、その中の「三句の法門」であると理解している。

大日経に書かれている「三句の法門」は、「菩提心を因とし、大悲を根として方便を究竟とす」とされている。

大乗仏教を信ずる者は、先ずは仏法僧の三宝に帰依し、自己の汚れを落とす鍛えを行い、他者を救済しようとする姿勢が何よりも優先する。
所謂、菩薩行を行うことである。

菩薩とは、何も高いところにいるきらびやかな者ではない。
何とか恵まれない人々に小さくてよいから手を差し伸べてやろう、人のためにしてやろうと志をたて、そして絶え間なく自己を研鑽し、心の汚れを少しでもなくそうとする努力を惜しまない心を持った人そのものを言う。
このときに持つ心を「菩提心」という。

そして、この「菩提心」を糧にして、やってやろうとする思いや姿勢を起こすことを「因」と称する。

また、大悲は、相手の悲しみをも自分のものとして受け止められる姿勢、自利利他の精神を絶えず胸におき他者のために行いを起こす心を言う。

そして、このような心を持って他者に接しようとする気構えを「根」と称する。

また、あらゆる手立てやあらゆる心を持って対応する事、様々な多くの手段をもっていることを「方便」と称している。

この3つの心構えを持って他者と関わり、他者と接することを「三句の法門」を持って駆使するという。

しかし現代社会は、人同志が関わり合いを持たなくとも社会は動いている。
ただその場合、人が関わらない社会は、社会がどこに向いて動くのかは予測がつかない。

そして、とどの詰まりは、全てに手が負えなくなり、社会全体が暗い闇の世界に閉じこもり、闇深い心を持った人間のみの社会が形成されてしまう。
そうなると社会のみならず、そこに居住する人間達も自ずから崩壊してゆく現象が現れてしまう。

崩壊は、実に簡単に起きるが、一度起きたらもう二度と再生はできない。
次世代を見たとき、社会が崩壊する危険性が大きくなっているといわざるを得ない。

社会が崩壊する前に再生の足がかりを作っておかなければ最早未来はない。

それには「私には、関係ない」と傍観するのではなく、「三句の法門」に下づいた心の通った人間社会の再構築がなされる必要がある。

再構築のためには、社会を構成する全ての人々に責任がある。決して逃げないで前向きに関わっていって欲しいものだと感じている。

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