遺骨葬儀
〈更新日: 平成31年11月16日 〉 ※写真が掲載されている場合は、クリックすると拡大表示されます。
私の友達に俗に言うヤクザの親分がいたが、その親分も今から7年ほど前に肝臓がんで亡くなった。
親分が亡くなる4日程前に本人から私に直接、東京の病院から電話があった。
「住職、俺、もう駄目だ。死んだら俺の葬式をしてくれ」電話口で弱々しい言葉で私に頼んできた。
「心配するな。昔からの幼な馴染みでないか、必ずお前の言葉通りにするから、安心して死んでゆけ」
そう言って言葉を返してやった記憶がある。
ヤクザさんは、亡くなっても葬儀場も火葬場も使えない。
その為、ご遺体は、東京以外の火葬場でしかも火葬場が開く時間外に火葬にして、遺骨を収集し、札幌の私のお寺までご遺族が持参された。
そして、その日の午前中に通夜と葬儀のお勤めをして本葬儀を行った。
本堂本尊様の正面に遺骨を安置して、本堂の荘厳のみにて葬儀を行った記憶がある。
数人のご遺族が参列されていた後ろには、札幌在住のヤクザさん達がゾロっと並び座っていた。
社会的には何かと言われている方達なのだが実に律儀で絆は深い。
今回、永代納骨墓にその親分さんの遺骨も納骨することが出来て、親分との約束は果たしたつもりだ。
今は、何かしらホッとした安心感が私の心の中に漂っている。
多分、親分さんもそうであろうと信じている。
さて、この経験が東京や札幌など都会での遺骨葬儀や永代納骨、永代供養の有り方を真剣に考えさせてくれることになった。
その意味で親分さんには感謝している。
その後、2年程前に東京品川にある高野山別院で研修があった際、東京の友人に会う機会があった。
たまたま友人は、身内の葬儀を終えた後に研修に参加されていた。
「昨日、姉のご主人が亡くなって葬儀を終えて来たばかりだ」
「所で驚いている。葬儀に3週間掛ったんだよ!!」
「しかも八百万円も掛かっている。香典が三百万円あったから五百万円を持ち出して終えたよ」
「いくら何でも可笑しくないか、どう考えても異常だよ」
こんな相談を受けてしまったのだ。
こんなやりとりを終えた後、私は、今日の葬儀の有り方について真剣に考えることに成った。
各方面から様々なお話を戴くが、ほぼ異口同音に現代の葬儀の有り方、お墓の有り方、納骨の有り方についての「異常だ」とか「可笑しい」とかと言った苦情を聞く。
そして、どのように考えても葬儀費用が掛かりすぎであることに気付かされる。
さらに「宗教性を失い、厳かさを失った、形骸化、形式化した葬儀」に疑問を感ずる機会に遭遇する。
また、そんな形式化した葬儀を司る僧侶達が何も言わないのは何とも不可思議で仕方がない。
一般の方々も、何も分からないからと言って葬儀屋さんに丸投げしている。
そして、葬儀が終わった後に「金が掛った。暴利だ」と苦情を言うのだが、何処かが違うと感じている。
人の生命の最後を取り仕切る儀式に遺族、僧侶、葬儀関係者も何か誰も責任を持っていない。
兎に角、宗教性が全く見えなく、人の生命に対する暖かさ、抱擁性を全く感じないのである。
こんな姿が本来の葬儀の有の方なのか、異常な社会問題が表面化しているが今日だ。
最早、何もしないで放置しておくことは出来ない。
私は、そんな現代社会の異常な葬儀や遺骨の扱い方に疑問を感じている僧侶である。
そんな中、私は簡素で安価で行える遺骨による葬儀の有り方を提唱している。
僧侶の読経を持って仮通夜を行い、遺族のみで故人の人生最後の夜を偲んだ後、翌朝、すぐ火葬にして収骨し、札幌分院か羽幌本院に送骨又は、持参する。
そして、通夜と葬儀お勤めを行って本葬儀を行う。
その後は、1年間お寺に預かって永代供養を行い、その翌年のお盆にかけて永代納骨する。
これは、祭壇も食事も宿泊も会葬礼も省くことが出来きる。いくらでも簡素で安価な葬儀を行うことは可能だ。
勿論、立派な葬儀を望まれる人にとっては無用な論法だが、葬儀方法の選択肢の一つとして提唱は出来る筈だ。
ヤクザの親分の遺骨葬儀を行ったことからヒントに私が考えた方法である。