【高野山真言宗成田山真如院(羽幌本院・札幌分院)】札幌・羽幌での十三参り・水子供養など

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三国志(吉川英治著)を読み終わって

〈更新日: 令和6年8月1日 〉 ※写真が掲載されている場合は、クリックすると拡大表示されます。

「三国志(吉川英治著)を読み終わって」
この度、三国志を読み終えた。単個本10巻、約6000ページを3度ほど読み返し、三国志の内容の深さと中国の歴史を洞察するにつけ、中国と言う国のスケールの大きさに驚嘆してしまった。
三国志は、西晋武帝司馬炎の命を受け西蜀の臣下であった「陳寿」が、234年に没した諸葛孔明の書き残した「諸葛氏集」を編纂し、それを下に「三国志」として274年に書き表した。
陳寿は、三国志で諸葛孔明の記述を中心に綴り、孔明が著わした「出師(しゅっし)の表」の中で孔明の劉備玄徳への「忠」を描くことが目的であったと言われている。「三国志会事務局長渡辺義浩記」
225年春、諸葛孔明は、南征し、同年秋に南中(雲南省)の反乱悉く平定した。その後,故劉備玄徳との約束と漢王朝の復興の為に曹操軍討伐の為に北伐へと出発する。227年その出陣に当たって、北伐への正当性を示すために表した上奏文が「出師の表」と言われている。
三国志の時代は、後寒が不安定になって混乱する中、外敵である黄巾族が184年に起こす黄巾の乱から始まり280年晋が天下統一する約百年間の時代の事を言う。ただ、吉川英治さん著書では、諸葛孔明が234年に亡くなるのを境にした約50年間を著述して終了している。
著書では、桃園の巻を始めに「寒室」の末裔に当たる劉備玄徳が関羽、張飛との三者が桃園の庭に刎頸の友を誓う所から始まる。そして、無名の輩ながらも黄巾族を各々州の当主に協力しながら平定し、多くの戦乱を通じて彼らの武量を高めていく。208年正月劉備玄徳が諸葛孔明と出会う事により玄徳は、軍師と知師を得て三国志の歴史上に大きな流れを起こして行く。
その後玄徳は、蜀の国(四川省、首都、成都)を得ることにより初めて一国の主となる。これには、軍師としての諸葛孔明、玄徳の義弟であり武士である関羽、張飛の力によるところが大きい。しかし、三国志の歴史の中では、最初から最後まで歴史の中心として動き描かれる人物は、何といっても魏の国の丞相曹操である。若い頃から荒くれた人間であったにもかかわらず、他人の面倒見、包容力などは何といっても優れており、文学者で有りながらも軍師、戦略家、策略家でもあった。後寒の朝廷を抱き込み、まるで摂政政治するが如く帝を利用する。そして、朝廷に代わって政治を掌り魏の国を強大に仕上げてゆく。農民支配を確立し、軍隊が、戦争現場ではない農地を耕作する屯田制を開始する。また、軍屯だけでなく農民に土地を与えて荒廃した土地を耕す民屯も行う。放棄された土地を整備して流民を呼び寄せ、種もみを与え、耕牛を貸し与えている。そして、その収穫から6割を税として徴収する。また、税制を整備し、それまでの貨幣価値が不安定に成っていた銅銭による税に代えて、布で税を取る「調」という税の仕組みを作った。これは、隋、唐時代の均田制や租庸調の税収制度の基本となる。しかし、曹操は、自分の父曹嵩を虐殺した徐州を恨み、侵攻して民を含めた大虐殺を行った。また逆心を持つ者には、有無を言わせず断首。世話に成った恩人をも平然と殺戮した。
この為、著書では、曹操を「姸絶(かんぜつ)」として悪者に仕立てた人物として描いている。
これに対し諸葛孔明は、軍師としての優越性や南方民族平定に示した「火の戦略」、「退却を用いて狭路に導く戦略」、「火を噴く猛獣型ロボットを開発して戦略兵器として用いる」など現代に通用する軍事戦略を用いる。特に曹操軍との戦いでは、軍部が必要とする大量の食料問題解決の為、大型ロボットを開発して輸送手段に用いるなど、突飛で特異な智慧に富んだ知者として評価される。
この為、諸葛孔明を「智絶」と呼んで良人として描く。
そして「義」の人として描かれるのが関羽である。関羽は、玄徳に対し何事であろうと忠誠を誓い、裏切らない人とされる。そして、宋時代には、関羽を交易の守護神として崇め、塩を売る山西商人の中で「財神」として崇められている。これは、宋が北方民族との闘いで必要とする「塩」の専売特許を山西商人が得て、遠隔地に塩を送るには関羽の武力によって商売が守られ、儲けさせてくれる神様と考えたからと言われている。この為、関羽を「義絶」として財を護る財神として崇められる。
清時代には、関帝廟まで作られた程だ。この三絶こそ三国志の書を通して知られる大きな内容である。

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